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「まだどこにもない『サプリメント学』について」

サプリメントはなぜつくられるのか?

健康によいものを探求する

人の健康に寄与する物質の研究は、いつどこでどんな形ではじまったのでしょうか。

諸説ありますが、中国ではすでに後漢時代に「神農本草経」という書物に、現在の漢方処方に用いられている知識がほぼ完璧に体系化されていたことが知られています。

一方、ここ数十年の間に日本人の食生活が激変し、平均寿命が2倍に及ぶようになりました。すでに長寿社会となった日本が、今後さらなる社会的変動期を迎えていることは、ご承知の通りです。このような変化の激しい状況の下、新しい知見の発見も医学、栄養学の分野を中心に相次ぎ、それらの情報をベースにしたサプリメントが、おびただしい種類開発されています。けれども、ことその適切な使用方法となると、無手勝流に近い状況がむしろ多数派を占めている可能性が高いと思われます。体系化という点では、後漢時代の業績に遥かに及ばないのではないでしょうか。

情報の洪水に飲みこまれないためには

そして、その無手勝流を放置するあまり、実は有用なものを無用の長物と決め付ける逆の風潮を、招来することにもつながります。サプリメントの体系化が難しいことには、それなりの理由があるはずです。けれども、その理由を把握し、それを咀嚼した上で体系化しなければ、本当の意味で社会に信頼される製品が、表面的な情報の洪水に飲みこまれてしまうにちがいありません。

サプリメントが開発される背景には、これから申し上げるようないくつか複雑な事情が存在するものと、私は考えています。

古い栄養成分の新しい役割

サプリメントが開発される背景にある複雑な事情の一つ目は、純粋な医学や生命科学の進歩によって全く新しい知見が見出されること。

二つ目は、存在や基本的な役割自体は昔から知られていたけれども、最近になって新しい働きが発見されるようになり、さらにそれを工業的に生産できるようになって市場に登場するというケース。

三つ目は、人間がはじめて80才を越す平均寿命を持つようになった今日、その生涯折々の生理的な変化に対応して、従来知られていた成分に新しい役割や利用法が「考案」される場合です。

医学・生命科学の進歩

ある物質が見出されたことによって、従来の生理学の解釈が刷新された近年のケースとして、インターロイキンなど免疫に関与する成分があります。あるいは、ある種の化学的シグナルを発信する分子(たとえば脂肪細胞からの分泌が低下することによって、メタボリックシンドロームに影響を与えていることが最近明らかになったアディポネクチンなど)が挙げられます。また、ヒト遺伝子の解明から、これまでにまだ知られていない生理活性タンパク質が、今後続々と発見されてくることもほぼ確実です。とはいえ、これらは純然たる生体成分なので、それそのものをサプリメントとして摂ったりするというようなものではありません。

しかし、あるサプリメントによって、それら生合成されてくる物質の量を、間接的にでもうまくコントロールできるならば、ここにも新しいサプリメントの使命が生じるはずです。また、全くの新規物質が発見され、それが一定の生理機能を発揮するかどうか、というようなことを追求することは、まさに医薬品の開発そのものでもあります。

一見ありふれた物質に意外な生理作用が発見される場合

先に「古い栄養成分の新しい役割」で触れた、サプリメントが開発される背景にある第二の観点、すなわちその成分やそれを含む食材自体は特に目新しいものではないが、意外な働きがあることが改めて発見されたのでそれを積極的に利用しよう、という場合について考えてみます。

たとえば、旧来特定の生物に存在する単なる色素としてしか認識されていなかったカロテノイドという物質に、実は活性酸素の消去効果があることが見出されたのは、1980年代中盤の日本においてのことでした。これは、ニンジン色素の研究にはじまる長いカロテノイド(carotenoid:ニンジンがcarrotであることから、その色素がcarotenカロテンと命名された。語尾にある−oidは、何々の同類という意味を表す接尾語)研究の歴史から見れば、最近の部類に属します。

機能の発見→量産化の成功→商品化

カロテノイドに活性酸素除去能があるという知見は、さらにその後工業生産の確立期を迎え、現在アスタキサンチンとして商品化されるまでに至っています。ちなみに、医薬品にせよ天然物にせよ、それが市場に供給されるようになるための条件として、大量かつ安価に製造する方法が開発される必要が常にあります。この側面から、サプリメントの世界を考えてみることも重要だと思います。

コエンザイムQ10の存在意義の新たな発見

意外な働きが発見された物質の例を、もう一つ挙げてみます。

コエンザイムQ10が、電子伝達系という生体エネルギー産生の過程に必須の成分であることは、古典的といってよい知見ですが、この物質が今日、アンチエイジングサプリメントの雄として存在価値を得ている主要機能は、活性酸素の消去です。この活性酸素の消去という知見は、コエンザイムQ10の機能として現在の大学の基礎生化学のテキストには必ずしも登場しませんから、どちらかといえば既知成分に見出された新しい機能の一つに数えてもよいと思われます。やや本論からそれますが、ここで述べたカロテノイドやアスタキサンチンのほか、ビタミンC、ビタミンE、α-リポ酸など多くの物質が抗酸化物質として、サプリメントのラインナップに登場してきていることは、非常に面白い事実に思われます。将来、もっと知見が積み重なれば、新しい解釈が可能になることと思いますが、さまざまな生体成分にはその成分にしかなしえない「本業」のようなものがあり、「副業」として、「直接間接に活性酸素の除去を分担している」、というような姿が実像に近いのかもしれません。ことほど然様に、活性酸素の攻撃から身を守ることが重要である、ということなのでしょう。

常温超伝導とES細胞研究

1980年代の半ばころ、本来は超低温環境下でのみ実現可能と思われていた超伝導の現象が、もっと高い温度でも実現できた、という報道が毎月毎週のように報じられたことがありました。その研究の真偽のほどはともかく、このことはある科学的関心事がトピックテーマとしてスポットライトを浴びるようになると、よってたかっての研究が進み(一部に思い込みや主観、捏造といった由々しき部分も含みながら!)、集中的にある知見が集積されることの典型的な例だと思われます。先般韓国で問題になった、ES細胞に関する研究にも似たようなものを感じました。

しかしいずれにせよ、このような研究の流行がいろいろな分野で見られることによって、最終的には新たな知見が深まる、というメリットは確かにあるのだと思います。

抗酸化物質の続出

昨今の抗酸化物質の続出現象も、前回のブログ投稿で申し上げたような「研究の流行」に似ている、と私は思います。個々の物質にしてみれば、特別今になって改めて抗酸化作用を発揮するようになったわけではなく、昔からそのような作用をもたらしていたことに違いはありません。しかし、抗酸化を指標にし、あちこちで探索が始まった結果、あれにもこれにも抗酸化作用がある、という発見が相次ぐことになったはずなのです。

高所大所の理論が欲しい気分

このような状況が、やがて優れたサプリメントを生み出すことにつながることは間違いのないことだと思われます。

それにしても、「物質Aは物質Bの○○倍の抗酸化力!」などというキャッチフレーズが、市場で一人歩きすることはいかがなものでしょうか。超伝導競争ではありませんが、サプリメントというような切り口でものを考える場合には、抗酸化という局所的な物理化学現象を、より総合的なヒトの健康状態へと客観的につなげることが必要です。

このように、高所大所の議論や理論が洗練されるべきではないか、とこの頃よく考えさせられます。

新規サプリメント登場の第三のきっかけとは?

新しいサプリメントが登場する第三のきっかけをここで述べます。それは「ある成分の存在や基本的な機能そのものは比較的古くから知られているが、昔のヒトの身体自身がその成分を摂取することをあえて必要としなかった。しかし、現代のヒトがそれを必要とするようになった」ということになります。昔のヒトが必要とせず、現代のヒトが必要とする、とはどういうことでしょうか。これはつまり、ライフスタイルの変化であるとか、そのライフスタイルの変化がもたらしたさまざまな身体の変化により、ある成分は昔のヒトにとっては必要ではなかったが、現代のヒトは必要とするようになったということです。

従来の常識をリセットして考えたいこと

言い換えれば、平均寿命が40代、50代であった時代には遭遇しなかったこと、人生80年超の時代になった今、新たに社会的課題として提起されるような現象に関することです。考えてみれば、本来病気を治療するのではなく、QOL(生活の質)の向上を目的とするであろうサプリメントは、衣食足りた成熟社会の生み出した需要だともいえるわけです。

このことは、従来の栄養学や生理学で常識とされてきたようないくつかの知見を、いったんリセットするようなセンスを要求してくる課題だともいえます。

(2006年10月〜12月)

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高齢化社会対応型のサプリメント

高齢化社会が要請するサプリメント

サプリメント開発の背景である第一カテゴリー“純粋な医学や生命科学の進歩によって全く新しい知見が見出されること”の内容を振り返ってみます。脂肪細胞が分泌する物質であるアディポネクチンなどは、そもそも脂肪細胞が多くの人の内臓(腸間膜)に蓄積されるような時代になってからはじめて意味をもつようになった知見であると言えます。このような観点から出発し、現在、市場で販売されている生体成分は非常にたくさんあります。例えば、次のようなサプリメントは高齢化社会対応型の栄養補給法といえるでしょう。手足の関節の滑らかさが失われてくることへの対処として、N-アセチルグルコサミンやヒアルロン酸の摂取、ハードウエアとしての脳細胞の20パーセント近くを占めるDHAの補給。また、持ちすぎた脂肪を消費しやすい形に変換して行くCLA(共役リノール酸)や、脂肪燃焼の場であるミトコンドリアに脂肪を運搬するL-カルニチン、そのL-カルニチンの働きを助けるHCA(ヒドロキシクエン酸、ガルシニアエキスの主成分)の意識的な補給などです。

「サプリメント摂取方法」の科学はまだ存在しない?

これらの多くは、古典的な物質が総力を挙げて、現代人のQOL向上に力を合わせるような状況にも見えます。だからこそ、これらをどんな状況で、どんな人を対象に、どうやって摂取してもらうことがよいのか、などについての総合的な研究がもっと進む必要があります。

しかし、この点に関してはほとんど手付かず、そもそもそういうことを研究しようとする必要すら感じられていない、といった由々しき状況ではないかと思います。

(2006年12月)

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動物たちからL-カルニチンを「いただきます」

意外なところに意外な栄養素

どんな栄養成分が、どんな食物に含まれているかということは、子供の頃からさまざまな機会で教わります。果物にビタミンC、レバーにビタミンA、ニンニクにビタミンB1、シイタケにビタミンDといった感じです。これらは、有名度でいえばトップクラス、あるいは古典的な知識といってよいでしょう。これだけサプリメントがたくさん用いられるようになった今日、その情報レベルは非常に上がってきています。食べ慣れた食物に、意外な有効成分が含まれていることを知ると、何となく得をしたようなうれしいような気がします。また、ある成分が、ある生物種に特別たくさん含まれている、というようなことを聞いた時には、非常に興味をひかれるとともに、なぜその成分がそこに多く含まれているのか、という事情を考えてみたくなります。

なぜその成分がそこにあるのか?

たとえばL-カルニチンの場合、植物には非常に含量が低く、食肉の中に多く含まれています。

これなどは、比較的その理由を説明しやすいように思われます。つまり、脂肪が筋肉細胞の中のミトコンドリアに運ばれて燃焼する際に、L-カルニチンが運搬役をしている、というもう一方の事実から、動物の筋肉にそれが多く含まれている、という事情を直感的に納得することができます。

「天の恵み」を失敬しながら生きている私たち

このことは、ミトコンドリアは持っていても脂肪をエネルギー源にしないであろう植物にL-カルニチンがほとんど存在しないこととも矛盾しません。脂肪を燃焼させて筋肉を動かすために、羊や牛は体内にL-カルニチンを持っている。私たちが、羊肉や牛肉を食物として食べるということは、本来、羊や牛が自分たちの生命維持のためにもっている成分を失敬している、ということにほかなりません。

牧草からつくられるL-カルニチン

調べていないのでよくわかりませんが、羊や牛の食べている牧草も植物であるが故に、L-カルニチンをほとんど含んでいないはずです。にもかかわらず、なぜ羊や牛はたくさんのL-カルニチンを持っているのか。人間の場合、主として肝臓でL-カルニチンが作られているという事実がわかっています。このことから推測すると、恐らく牧草に含まれているアミノ酸(リジン、メチオニン)やビタミン(C、B6、ナイアシン)、ミネラル(鉄分)を原料に、羊の肝臓がL-カルニチンを旺盛に合成しているものと考えられます。だとすれば、羊や牛など草食動物の肝臓が、L-カルニチンの「一次生産者」だということになります。

動物の進化とL-カルニチン

食肉に多く含まれている、などと言われているL-カルニチンですが、栄養学的に考察する必要上、食肉の範疇にある牛肉や羊肉などに関するデータが多いというだけで、その他のクロスワードパズルのマス目はまだ埋まっていません。長距離で集団移動するヌーやバッファロー、シマウマやゾウ、ラクダでは羊よりも多いのか、両生類はどうか、冬眠する爬虫類や飛翔力の強い昆虫はどうか(L-カルニチンはもともとチャイロゴミムシダマシという昆虫の幼虫に存在するビタミンだと考えられ、その虫の学名(Tenebrio molitor)の頭文字をとって、ビタミンBTとよばれていた時期がありました)、同じ哺乳類でもライオンのような肉食動物ではどうか、肉食鳥類の猛禽類はニワトリとどう違うのか、羊や牛と同じく草食であるオランウータンやゴリラの筋肉にもL-カルニチンが多いのか、ナマケモノとリスではどう違うのか?などなど。こういうことに空想を働かせていると本当に興味が尽きません。あるいは、脂肪をエネルギーとして蓄え利用するという動物進化の特徴を、L-カルニチンという化合物を通して解明できる可能性すらあると思います。

ヒトが自分自身で作れない成分

ところで、栄養素の中には、ヒトが自分自身の身体の中で合成できないものが、いくつか知られています。ミネラル類は無機物なので、外部補給に頼らざるを得ないことは当然です。ビタミン類は人間の食生活の注意深い観察の後に、研究者が次々に発見してきたものですが、ビタミンA、B群、C、Dなどアルファベットの順にラインアップされる物質のほか、アミノ酸の中にも自分で合成できないものがあり、それらは必須アミノ酸と呼ばれています。また、脂肪の中にも、リノール酸、リノレン酸、アラキドン酸など、外部補給しなければならないものがいくつかあります。

栄養学的に考えれば、これら自分で作ることのできない必須成分を重要な栄養素と考え、これを不足なく補給することが、安定した食糧供給体制の目標とされることは不思議ではありません。特に、第二次世界大戦の末期や終戦直後の日本はそうでした。現在でも、飢餓に苦しむ人々に向けて、どうやってそれらの必須栄養素を供給するかということは、まさに死活にかかわる地球規模の大問題です。

(2006年12月〜2007年1月)

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「飢餓の栄養学」と「飽食の栄養学」

ビタミンの発見

自分の身体で生存に必要な成分を作り出す能力を生合成と呼びます。どの成分が生合成でき、どの成分ができないかということは、初期にはいくらか偶然に発見されてきました。

たとえば昔、船乗りの歯ぐきから出血するという症状が多数発見されましたが、やがてレモンライムを食べたら、それが軒並み治ってしまうことが知られるようになりました。そして、柑橘類を調べてみるとそこに含まれている物質、今でいうビタミンCが効いているとわかった、これがビタミンC発見の流れです。その他、脚気に対して米ぬか、鳥目(夜盲症)に対してニンジンなど、代表的な症状とそれに対応する身近な食物との関係が明らかにされてきました。

ビタミンをVitaminと綴るわけ

ビタミンをVitaminと綴るわけをお話しようと思います。

「人間にとってはごく微量しか必要としないが、生合成できない物質」がいくつか発見されるようになった当初、それらは専らアミンという水に溶けてアルカリ性を示す物質でした(現在それらは主としてビタミンB群という分類になっています)。さらに、その微量物質を与えられると元気になるというので、元気の出る(vital)アミン(amine)すなわちビタミン(vitamine)と命名されるに至りました。

細かい話ですが、化学物質の命名でアミン(amine)に属するものは、そのスペリングの最後は必ず“e”で終えるというルールがあります。たとえば、代表的なアミンであるアニリン(aniline)、アミノ酸(アラニンalanine、リジンlysine、メチオニンmethionine、グルタミンglutamine、アルギニンarginineなど)、カルニチン(carnitine)など。しかし、初期にはこのルールに基づいて、ビタミンはvitamineと綴っていてよかったのですが、後に水溶性だが酸性のもの(アスコルビン酸=ビタミンC)、そもそも水に溶けないもの(レチノール=ビタミンA、カルシドール=ビタミンD、トコフェロール=ビタミンEなど)が発見されるに及んで、綴りの最後の“e”が定義にあてはまらなくなりました。

それで、現在では、ビタミンはvitamineではなくvitaminと綴られます。

ビタミンの供給者としての製薬企業

その後さらに、ビタミン研究はますます盛んになり、各々の成分がどこでいつ、どのように働いているのか、といったことが次々に明らかにされました。日本をはじめ、世界の製薬メーカー創立の歴史を紐解いてみても、このビタミンをどうやって供給するかという工夫に、創業の端を発するケースが大変多いのが事実です。このことは、食糧供給が十分でなかった時代背景からして、偶然のことではなかったと思われます。

自分で生合成できないのか、生合成しないのか

ここで、成分補給について、やや違う角度から考えてみたいと思います。即ち、そもそも生物進化の歴史からみて、自分で生存に必要な成分を作り出すことができないとはどういうことか?ということです。ひとつ考えられることは、わざわざ自分でつくらなくても、容易に周囲の食物からそれを調達できるから作るのをやめてしまった、という理屈です。

欠乏症に気付く状況とは

「容易に調達可能」ということには、いろいろな意味があります。ひとつは、苦労して探さなくても、あるいは意識していなくても、手近な食品に必須成分が含まれる、ということが挙げられます。また、常にわずかな量があれば事が足りる、という量的な問題もあると言えるでしょう。従って、これまでの人類の歴史において、たまたま帆船で遠洋航海に出るとか、芋のツルや水団(すいとん)を大事に食べざるを得ない、といったかなり特殊な状況におかれた場合においてはじめて、ある種の栄養素の外部補給必須性が判明した(欠乏症に気付いた)、そういうことだと思います。

今もって生合成にこだわっている物質の場合

今度は生合成可能な成分について考えてみます。

長大な進化の荒波に淘汰され生き残っている我々が、今に至るも食物からの外部調達に頼らず体内で合成され自己調達を続けている生体成分とはどういう存在なのでしょうか?

それらの成分は数えきれないほどありますが、例えばアミノ酸でいえばアラニン、グルタミン酸、アスパラギン酸などが挙げられます。

そもそも、生合成が可能だということは、いざそれらの欠乏を起こしてしまうと、個体の生存や種の存続にかかわるのだ、ということになるように思われます。

BCAAが必須アミノ酸かどうかは大したことではない?

「必須アミノ酸よりも非必須アミノ酸の方が重要だ」、「ビタミンは通常の食糧事情にあればそれほど重要ではない」、などというと非常に逆説的に聞こえるかもしれません。しかし、「現代の栄養素」は「飢餓を救済するための栄養素」と異なるミッションを持っているだろう、というのが私の考えていることです。たとえば、現在BCAAとして有名な分岐鎖アミノ酸の主要メンバーは必須アミノ酸ですが、これらを補給することで今日期待される役割は、必須アミノ酸としてのそれではなく、現代人のライフスタイルにおいて上質の筋肉をいかに確保するか、という部分にあります。

食糧事情の変化に伴うこのようなミッション(役割)の変化は、なかなか意味深長です。

L-カルニチンは外部摂取不要か必要か?

このようにみてくると、わずかな量ながら生合成が続けられている栄養成分に対し、改めて注意が向けられてもよいのではないかと思われます。

L-カルニチンは、そのような栄養素、すなわちヒトが自分で作ることを未だに放棄していない栄養素のひとつです。また、面白いことにL-カルニチンは、リジンとメチオニンという2種のアミノ酸と、3種のビタミン、1種のミネラル、つまり外部補給に100パーセント頼る成分ばかりを原料として作られます。つまり、摂取が必須のものを原料として、摂取が必須でない物質が作られているということになります。なんだか、言葉遊びの様相を呈して来ました。

「飢餓の栄養学」と「飽食の栄養学」

生合成がされるかされないかについて、どちらが重要だというような問題ではありませんが、栄養学的に分類するとどうなるのでしょうか。生合成がされるので、L-カルニチンは外部補給する必要がない、と主張するのが飢餓救済をミッションとした栄養学の考えになります。一方、生合成がされるからこそ、外部補給に意義がある、と考えるのが現代的の栄養学の立場だ、というようなことがいえるのではないでしょうか。

「必須微量栄養素の欠乏症状」は比較的軽い?

一般的なビタミンは、多くの機能を有しているので、その欠乏初期においては、もっとも影響を受けやすい部位から、様々な症状が生体現象として現れてきます。歯ぐきから血が出るとか、眼が見えにくくなるとか、背骨が脆弱になって変形してくるとか、比較的長い時間のうちに、ちょっとした不具合として現れてくるわけです。つまり、完全に欠乏する以前に、その栄養素の欠乏傾向を知らせるアラームとして探知できるということです。

(2007年1月〜2月)

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「健康食品」をめぐる不毛の対立

人の数だけ存在するベストコンディション

80歳を超えてフルマラソンをすごいタイムで完走する人に比べれば、20代の時でさえハーフマラソンがやっとという私の身体能力は非常に劣ったものに違いありません。また、その80代のランナーがある日20キロしか走れなくなったとしたらその人はショックを受けるかもしれないし、現にどこか体調が悪いのかも知れません。逆に、元来ランニング体力に恵まれない私もそれなりに現在に至るまで健康体であり、毎日1時間あまりの通勤時間を含む、凡庸なくらしの中でまずまずベストコンディションと自覚しながら過ごしています。

このことから考えて、人の身体の能力の個人差がいかに大きなものであるかということを言っても良いように思うと同時に、人それぞれに健康な状態のあり方、満足の行く健康状態は各人が各様に体感して決めてゆくべきことなのだということにも思い至ります。こういうことは恐らく何らかの事情で五体満足ではない人にも当然あてはまるでしょう。身体が不自由な人には不自由な人なりに調子のよい、ベストコンディションという状態が経験的に確立されるはずです。

「誰にも有効」と説く健康法や健康食品への警戒

健康法や健康食品に対する考え方や方法論についても、このような観点からみてくれば、どんな場合にも概略のことは言えるけれども、個々のケースについては自分たちでつかむしかないというところに行き着きます。もし、「誰にも有効な」ダイエット法などを謳う広告宣伝があったとすれば、それは常に「それのあてはまらない人も相当数いる」ということが前提でなければならないでしょう。

その点消費者の眼を進んで欺いたり幻惑したりする広告宣伝は慎まれるべきです。

慎重論が提供する安全だがつまらない結論

一方、「誰にも有効な」ダイエット法などの喧伝を全体的に規制しようとすると、逆に最大公約数的に非常に慎重なものだけしか認めない、という傾向、あるいは石に混じって存在している玉が拾い出せないという状況に行き当たります。そこからは健康食品で言えばビタミンとミネラルだけが及第点、あとはみなリスクがあるので勧められない、という結論しかでてきません。これはこれでまた、消費者が「得べかりし利益」「享受する機会の損失」を招きます。

不毛の対立

健康食品を真に科学的に扱う学問体系は未整備の状態であるとしか私には思えませんが、現実には「未整備ではない、確立されている」として、慎重で当たり前の結論しか言わない守旧学問派と、「そもそも科学的であろうとしたこともない」山師的非科学派があちこちで不毛の対立を繰り返すことになります。この対立の繰り返しに進歩が見られない理由は、守旧学問派の人たちがその人たちが考えるところの「確立されている理論」をそれ以上に発展させようとしないことに一つの理由があります。現況を未完成、発展途上であると認識する力がなければそれ以上の進歩は期待できないでしょう。

一方、山師的非科学派の方は、「わかりやすさ」を「合法性」のぎりぎりのところで表現する工夫に長けようとするばかりで、その「わかりやすさ」が非科学的であることに無関心であることが多いので、ここに守旧派から半畳を入れられる格好の隙が生じます。

乱世における消費者の判断力

この不毛の対立とは具体的には機械的に取り締まりを強化すればよいとする動きとその取り締まりをいたちごっこ的にかいくぐってやろうとする動きとなって現れます。これは一種の乱世といえるかもしれません。その乱世で翻弄される被害者が消費者だ、という見方には大いに賛同したいと思いますが、消費者は消費者として自己責任の意識をしっかりもって判断力を確保すべきだとも考えます。

話が大分脱線しました。ですが、私は中高年になろうともフルマラソンを走りこむんだということは信念なしにはやれないことだと思いますし、その信念は経験的なやり方であったとしても必ず科学的に正しい方法論と結びついているはずだということ、そして各々のランナーの人々にはきっと色々な観点での自己責任の意識の持ち主ではないかと推察します。現代の日本で健康であろうとすることはそのように個々が自立的であろうとすることと同義であると思います。それがひいては不毛の戦いを次元の高いものに押し上げていくことにもなるでしょう。

(2007年7月〜8月)

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「フードファディズム」って何でしょう?

安倍総理がコメント

先日(2007年2月21日)のwebニュースによると、「総務省は、関西テレビの『発掘!あるある大事典2』のねつ造問題を受けて、導入を検討している放送法改正案の概要を自民党の通信・放送産業高度化小委員会(片山虎之助小委員長)に示した」ということです。安倍首相のコメントもあったようですが、「たかが納豆」に端を発したこの問題は、思えばずいぶん大規模な騒動になったものだと思います。今回の総務省の動きにより、今後の報道状況が良くなることを期待したいものですが、私は、この問題はそういう側面からのみの措置で万事決着とはいかない、いくつかの深い根があると思います。

海外へも影響

2007年2月22日付けの英国科学誌「ネイチャー」でも、この「あるある」の件が取り上げられ、科学者の発言が歪曲されて社会に及ぼす影響について報じられたということです。「ネイチャー」といえば、科学研究誌としては最も定評のあるものの一つですから、同誌で「あるある」の件が取り上げられたことは、非常に衝撃的です。ですが、こういった動きにより、安易なインタビューや無責任な発言内容の取扱いが減り、事態が落ち着いた方向に向かうことは、好ましいことだと思います。

フードファディズム

「朝夕1パックの納豆がダイエットに有効だ」と聞けば納豆を買いに走る、「タマネギが血液をきれいにする」と聞けば山盛りのオニオンスライスを食べる、こういう人は昔からまわりにいました。しかし、少し前までは、「そういう人いるでしょ?」「うん、いるいる!」というような捉え方しかできなかったと思います。今なら、このような人のことをどう呼ぶのか?その答えは、「あの人はフードファディズムな人だなあ」と言うか、「あの人はフードファディストだ」ということだそうです。

私は2年ほど前に、群馬大学の高橋久仁子先生の著書(「食べもの神話」の落とし穴」講談社刊)を読んで、この言葉を初めて知りました。

フードファディズムという命名

名前のなかったものに名前がつくということは、その後の議論に大変便利なことであるとともに、姿が見えず不安でしかたがなかった魔物の正体が、はっきりするような安心感もあります。最近になって「フードファディズム」と呼ばれるようになった現象は、実は昔から巷にあふれていました。私はなぜそのようなことがおこるのか、ということにも常々興味を持ってきました。そして、今回の番組捏造事件は、そのことを改めて考える機会となりました。

Fadということば

辞書を引くと、“fad”は「流行かぶれ、気まぐれな物好き」と出ていますから、別に食品に限らず、あらゆる流行を追う風潮は、「○○ファディズム」といっていいのだろうと思います。たとえば、「外国かぶれ=外国ファディズム」とか「ブランドかぶれ=ブランドファディズム」とか。しかし、それらは、オタクとかマニアとかそういうニュアンスとも接しているようであり、全体としてみれば、好きな人は好きなのだから、何にかぶれようが所詮は人の勝手である、という感じがあります。

フードマニア、フードオタク、と違う“フードファディズム”

また、仮にフードマニアやフードオタクという言葉である種の人を呼んでみても、それはむしろ「食通」とか「美食家」とかむしろポジティブな意味合いも帯びてきます。逆に、フードファディズムという言葉からは、「その人たちの勝手」として放っておけない何かネガティブなものが感じられます。

しかし一方で、その風潮はちょっとした啓蒙によって改善されるのではないか、という期待を抱かせます。

妄信者への扇動

「マニア」とはある意味では「違いがわかる人」だと考えれば、「ファディスト」は「妄信する人」という感じがします。つまり、それを信じている人自身、ものが見えていないという状態です。フードファディズムの場合、そこに何らかの商業主義とか悪意が差し挟まれれば、これは情報操作、扇動といったことにもつながります。たとえば、ファッションだとか芸能情報だとかの単なる無垢な流行ならばともかく、食品の場合には健康を害してしまうということにつながる、ここがいちばんの問題なのだと思います。

良いものはたくさん食べるほどよい!?

フードファディズムがもたらす危険なパターンとしては、「絶食や偏食」のリスク、および何か機能性のある食品を食べ過ぎたことによる「機能性食品の過剰摂取」のリスクに分かれると思われます。いずれにせよ、何かを食べる、ということに関して考えてみると、多くの場合「食べる量」と密接な関係があります。絶食や偏食の方は、基本栄養素が不足する栄養失調の状態に陥りやすいので、本人にも自覚しやすいかもしれません。しかし、機能性食品の過剰摂取は曲者で、その背後には常に「身体に良いものはたくさん食べるほど効果がある」という発想が潜んでいます。

信じ込ませる常套テクニック

なぜ、そう簡単に「何かが身体によい」と信じてしまうのでしょうか?

そこには、「信じ込ませるテクニック」というものがあるはずです。言ってしまえば「科学の装いをもたせること」、「権威のある人が語っているように見せかけること」、そのようなテクニックです。今般問題になった「あるある」のケースでは、納豆の効用を「外国の学者(権威のありそうな人)」が説き、「適当に編集して流す(科学の装いをもたせる)」、という典型的な「信じ込ませるテクニック」を用いたパターンでした。それによって、潜在的フードファディスト(一般市民)が、本物のフードファディストの大集団を形成してしまう、ということが実際に起こりました。

本当に重要なこと

そんなことは許されない、と世論が動き、番組が放送中止となったことは周知の通りですが、本当を言えば、そのような情報に踊らされてはいけない、というメッセージを視聴者に投げかけることが、もっと重要ではないかと思います。私は、元来、性悪説に立って人を見ることはしない方ですが、それでも襲ってくるリスクに対しては自分から現実的に対処するしかないと思います。例えばコンピュータウイルス対策として、セキュリティソフトをインストールすることが、PCを駆使する現代社会人においては当然の作法とされていますが、それと似ているかも知れません。

残念なリバウンド現象

また逆に、一部の健康番組のあり方が徹底的に批判されることによって、同時に「本当はすぐれた番組」が自粛されてしまうような風潮(ある種のリバウンド現象)が出てくるのも困ったことだと思われます。特に、フードファディズムのリスクを単純に強調する傾向のある人の中には、このような風潮を歓迎する人がいるようです。「バランスのよい食事と適度な運動をしていれば、サプリメントなどはできれば世の中からなくしてしまった方がよい」、といった極端な考えに立つ人も少なくないのです。

今はまだ混乱の中

さらにリバウンド現象というものを考えてみると、「無くなってしまった方がよいようなサプリメントが実在する」ということもまた、事態を複雑にしています。つまり、きちんとものをみて判断しなければ、どの論理がどの現実を批判しているのか、まったくわからなくなり、事態はより一層混乱してきます。

私は、このような観点から、「あるある大辞典」が放送中止となったことだけによって、その混乱が本質的に改善されたといえるのかどうか、その点で大いに疑問が残っていると思っています。

(2007年2月〜4月)

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