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「いつまでも、ある」と思いたい食と安全〜「食」が揺らぐ!5つの問題〜

不気味な予測

食に関する報道が非常に多い昨今

この1-2ヶ月の間(2007年6〜7月)に、おびただしい数の報道がなされたテーマの一つに食の問題が挙げられます。あまりにたくさんのことが語られる中、その問題の本質を見失ってしまうほどです。食に関する話題については私も仕事がら大いに興味をもっていましたが、昨今の問題は極めて複合的・重層的で、これまでの私たちの認識がまだまだ甘いものであったと気付かされることばかりでした。

サプリメントを使う前提が崩れている?

私はふだんL-カルニチンをはじめとしたサプリメントを中心に仕事をしていますが、「サプリメント」の本来の意味がそうであるようにこれは「何かに付け加えられるもの」です。その「何か」とは何か?それは言うまでもなく「日常の食事」です。ですから日常の食事の基本がまずはじめにあって、それを核として健康を考えていこうというのが本来の考え方。サプリメントは、その基本を満たすことが時として難しい場合やある特別な事情、例えばアスリートだとか、メタボリックシンドロームが気になる人などにその食生活全体を「ある時間をかけて微調整するために使用する」、それが本道だということは、今日なおさら確認しておきたいことです。

不気味な予測

食の基本に得心された方は「そうだよな」と向き直り、これからはきちんとした食事をしようではないか、と一念発起。それなりに努力されることと思います。実際これまでは、そうして一念発起しさえすればその基本的な食事、食生活というものは簡単に確保されるものだ思われてきました。

ところが、この1−2ヶ月の間に私達を震撼させたものはそういう基本的な食生活を確保することが実はすでにそれほど簡単なことではなくなっているかもしれないという事実、そして今後ますますそれは難しくなるかもしれないという不気味な予測です。

「食育」などと言っていられるほど土台が充実しているか

また今、子供たちに対する食育の重要性が真剣に説かれています。まさに重要なことだと思います。しかし、そうした食育に取り組む前提となっていることもやはり「私たちの社会(地球全体でも特に日本のことに限ってもよいのですが)では安全で良質な食材がいつでも、いつまでも安定に入手できる」ということだと思います。それが事実としてそうではないのだ、ということになれば、私たちは新しいパラダイムに思考を切り替えて行かざるを得ません。

(2007年8月)

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「食」が揺らぐ!5つの問題

色々な次元の問題が一度に投げ込まれすぎた

私たちの生活の根幹を成す食の問題についていろいろなことが報道され、私たち消費者が知る権利を享受できること自体は重要なことです。それにしても、食に関するあまりにもいろいろな不穏な情報が投げ込まれすぎ、右も左も今も将来も不安だらけであるように混乱してしまうことは避けなければなりません。それで今回気付かされてきたことの議論を整理してみようと思いました。

「たかがサプリメント」に関するコーナーにしては規模の大きすぎる問題も含まれているように見えるかもしれませんが、「まっとうな食の上にしか成り立たないのがサプリメント」という観点からおつきあい頂ければ幸いです。そして「されどサプリメント」まで行ければと思います。

{第一章:人間が地球上の生物として直面する事実}

地球規模で急速に進行している人間並びに地球環境そのものの変化(いわゆる「不都合な真実」)

{第二章:日本にとって海外との力関係が問題となる状況}

第一節  日本が海外との関係で受ける需給バランスと経済的劣勢

第二節  日本の「食」に対する国民性がもっている特殊性・脆弱性

{第三章:現代人の要求にテクノロジーが「やりすぎている」状況}

第一節  (合法的模倣編)日本のハイテク人工模造食品や添加物を前提とした「安くて手軽、美味しい食品」を前提とした食生活に対する合法的な部分に対する改めての驚愕

第二節  日本の法律では違法だが海外では認められている添加物等が用いられている場合

{第四章:現代人の欲求の足もとを見た悪徳テクノロジー、詐欺の横行}

(違法的模倣編)「安くて手軽、美味しい食品」を可能にしている国内外での不正な食糧製造の実態。それに対する驚愕と不気味さ。実際のリスク。

{第五章:今後人類が切実に取り組むべき難題}

第一節  「安くて便利」にかわる選択

第二節  規格外食品の利用

第三節  大量の食品が今日も廃棄されている

第四節  議論することの難しさ

第一章:人間が地球上の生物として直面する事実

地球規模で急速に進行している人間並びに地球環境そのものの変化(いわゆる「不都合な真実」)

現在我々が地球上におかれている様々な環境リスクについて、アメリカ元副大統領のアル・ゴア氏が著した有名な「不都合な真実“An Inconvenient Truth”(ランダムハウス講談社刊)」という本に明解な図表とともに書かれているのを読まれた方も多いことと思います。私もはじめのうちこの本に描かれていることを単なる知識として受け取り、ショックを感じたり驚いたりしていたのですが、今年の夏の異常な猛暑を実感するにあたり、決してこの「真実」というものは現在の日本人に無関係ではないということ、そしてこれは将来のことではなく、もうすでに相当な実感として経験し始めていることなのだということがなおさらショックでした。この地球環境の変化ということと食糧や食品のことを関連付けてさらに考えを進めてみたいと思います。

例えば4つほどの現象を、現実に進んでいる「不都合な変化」として直ちに挙げることができると思います。(1)人口の絶対的な増加、(2)食糧の絶対的・相対的な減少、(3)地球上の水の分布のアンバランス、(4)エネルギー問題でありながら食糧問題に直接関連してくるバイオエタノール生産の問題、がその4つです。

「不都合な変化」4つの現象

前回書いた4つの現象について具体的に考えてみたいと思います。

(1)地球規模の人口の増加による食料需要の絶対量の増加

私が中学生だった1970年代のはじめ頃、社会科の地理の時間に世界人口は30億人であると習った覚えがあります。それからこちらの30数年を経て現在は65億人を突破しています。国連の予測によれば2050年には91億人にも達するとのことですが、それは非常にリアリティのある数字として実感されます。非常に単純な事実として、それだけ増加する人口を賄えるだけの食糧が毎日準備できるかどうかということが問題になります。なお一方、日本を典型として世界の先進工業国では少子高齢化が進んでいる。これは人口爆発とは相反することに思われますが、どちらも真実である以上「アンバランス」ということがまた別のキーワードになるのでしょう。

(2)地球規模での環境の悪化からくる栄養資源の絶対量の不足と地域格差

それだけの人口を支える食糧を生み出す源泉は太陽光と水によって育つ植物(作物)であることも絶対に動かせない真実です。 豚肉1キロを生産するためにはトウモロコシ換算で7キロの穀物が必要とされ、これが牛肉1キロとなると11キロの穀物消費と計算されるそうです。それでも、それだけの作物が育てられれば問題はありませんが、次に述べる環境要因についてはむしろ作物生産には不利な状況に進行していることが、これも「真実」として知られています。なお、将来のことではなく、現在すでに「飽食による肥満」が社会的問題として取り上げられている地域(日本もその典型ですが)とともに、飢餓に瀕するかなりの地域があることも見逃せません。ここでもふたたび「アンバランス」というキーワードが出てきます。

(3)地球規模での水の分布のアンバランス

植物である農作物を育てるために最低限必要なものは、太陽光と水、炭酸ガスであり、このうち一つでも欠けるとそれに替えられるものは何も存在しません。

ここでネックになるのは水です。

国連大学がこの8月に発表した情報(2007年8月2日付け日経新聞)によれば、過剰な家畜の放牧や農地開発が原因で起こる砂漠化が進んでいる地域が地表の3分の1に達し、10年後20億人に食糧難の影響が及ぶとのことです。天体としての地球全体にある水の量がさほど変化しなくとも、それが海水として保持される量、北極圏南極圏で氷として固定される量、そして地表地域における保水量のバランスが崩れているというところが大きな問題です。

世界各国で農作物地帯が砂漠化していること、同時に別の地域で降水量の異常な増加が「洪水」といった現象につながっていることなどが指摘されていることはご承知の通り。私が改めて驚いていることは、今年日本を襲った天候そのものです。台風による洪水被害、それに続く記録的な真夏日や猛暑の日々。それを思い起こすだけでもこの問題が外国人であるゴア氏が他国のことを指摘しているといったことではなく、まぎれもない私達をすっぽり包んだ問題であることが実感されます。

(4)バイオエタノール等エネルギー供給問題に関すること

そのような気候変動や高齢化などがいつにない臨場感をもって私達に迫っていることと同時に、現にマヨネーズが値上げされたとか、ソーセージが細くなったとか、そういう不気味な変化が眼に見えて来たのもつい最近のことです。このような値上げは原油価格の高騰などかなり政治的、人為的なことにも起因しており、その点は1970年代のオイルショックと似ていますが、今日それに加えて本来の食品原料が、いわゆるバイオエタノールの原料に流用されるようになったことにもはっきりとした原因が求められます。バイオエタノールはさらに遺伝子組み換え作物の活用という背景をもっており、これはこれで極めて政治色の濃い問題です。

日本でも1970年代を中心に、植物資源に蓄えられたエネルギーを微生物発酵によって取り出す技術(バイオマスエネルギー。今日のバイオエタノールはその実例)が研究されたわけですが、それが実行力をともなって今日ほど大々的かつ急速に利用されたことはかつてありませんでした。この変化にも大いに驚きを感じます。

利用されることは結構なことでありながら、一方で極端な作付けバランスの崩壊を招き、肝心の人間の食料としての作物の供給に不安を与えるまでになっている。これは、降水量バランスの崩壊、人口の急増、食糧供給事情のアンバランスとはまた独立に起こっている地球規模の環境問題であり、マヨネーズの値上げに象徴される変化としてこれもまた私達をすでに包囲する深刻な問題の一つです。

以上見た4つの問題は増加した人類の営みが原因となっていることではありますが、その影響の及ぶ範囲が地球環境やエネルギー資源という大スケールの事象であり、それでいて私達の身の回りでも実感できる影響なのだということ。このことをはじめにおさえておきたいと思ってこの項を書いてみました。本来一朝一夕ではどうしようもないスケールの問題に対し、なんとか人間の叡智で対応しようとして京都議定書のようなアプローチが行われていますが、各国のソリが合わない由で目標はどうもうまく達成されそうにありません。しかし、仮に一致団結できたとしてもそのシミュレーション通りに地球が蘇生してくれ、「過ごしやすかった昔」にそう簡単に戻ってくれるのかどうか。人口爆発といった問題も含めこの類の課題は文化価値そのものとも関係することです。いずれにせよ、地球の住人である私達が、どんな環境におかれようと、どんな価値観や文化を持とうとも今日も明日もずっと「毎日食べ続けなければならない生物の一種」としてあり続けることだけは確かなことです。

第二章:日本にとって海外との力関係が問題となる状況

第一節 日本が海外との関係で生じる需給アンバランスと経済的劣勢

(1)いわゆる「買い負け現象」が出てきたこと

経済は生き物ですから、時と共に栄えるところ衰えるところが変化します。私は物心がついたころに東京オリンピックや大阪の万国博を経験した世代です。そういう世代にとって日本は、ウサギ小屋に住むエコノミックアニマルの国と揶揄されながらも、世界第二位の経済大国であり続けることは当然のこととして了解してきたように思います。石油ショックやプラザ合意、超円高などの試練も都度創意工夫と努力で乗り越えてきた。どんな危機に直面してもそれを克服する方程式は常に提示され、難易はあってもとにかくそれを解けばよいといった感覚がありました。そして現在の私たちを取り巻く雰囲気もこれまでとさほど違わないではないか、といわれれば、そうかもしれないと感じます。しかし、局所的には今年あたりからマヨネーズやインスタントラーメンが値上げされるといったニュースが聞かれることはご承知のとおりです。たかがそういう食品が30円、80円と値上げされることくらい平気なレベルだ、と言われる方も多いことと思います。けれども、いわゆるインフレではない状況で食料品がわずかなりとも値上げしなければならない状況ということの背後には相当大きな経済バランスの変化が起きていると考えたほうがよいでしょう。ちょうどダムに水がたまっていてその水位が急速に上がり、ちょろちょろとではあるが、耐え切れなくなってオーバーフローしてきているようなイメージです。値上がりの背景は単純なものではなく、食品といっても商品ごとに原因は異なりますが、非常に大きな流れとして考えれば、「人口が非常に多い国に購買力が伴ってきた」ということが指摘されます。

とりわけ中国とインドはその人口のほんの数パーセントが日本の総人口よりも大きいような規模の国ですので、その部分の変化はたちどころに世界に影響してきます。「買い負け」といった表現が昨今聞かれるように、日本の業者が通常の価格で競り落とせない食品が出てきている、という現象はすでに現実のものとなっています。終戦後未曾有の経済復興に成功して以降の日本に住む多くの日本人はそもそも買い負けることなど想像もしていなかったと思います。

(2)欧米人も日本食を好むようになり、魚資源が不足

巨大な人口を養うために必要な食品の絶対量、これが不足してきているという問題もさることながら、日本人が歴史的に長く摂り続けてきた魚を中心とした食生活が健康に良いもの、と評価されるようになってきたという傾向も見逃せません。それにより、漁業資源の配分が変わり、やはり日本に回ってくる量が少なくなってきます。これには中国のみならず欧米での需要増も加わります。さらに“over fishing(魚の捕りすぎ)”が指摘され、海洋生物資源そのものの絶対的な減少も言われています。本来生物集団のもつ復元力はかなりタフなものですから、人間がその気になって捕獲制限をすれば本当は何とかなる問題ではないかと思いますが、それでも地球人口が100億人に向かって突っ走っている速度を考えればその自然復元力の方にも懸念が出てきます。

世界の中でも魚食を主とする少数民族としてひっそりと食生活を営んできた私たち日本人のスタイルがそのまま存続できるかどうか、ここにも問題があります。

(3)食料自給率が非常に低い(海外依存率が非常に高い)

前回考えたのは、食料の需要と供給に関するバランスの問題、即ち中国を中心とした人口爆発国の購買力に対する「買い負け現象」、あるいはこれまで以上に欧米で魚食が好まれるようになったというようないわば「配分の変化」に関することでした。これらは言いかえれば「日本人だけが知っていたおいしいもの」が入手しにくくなってきているということでもあります。

ではおいしいかどうかを問題にしなければよいのでしょうか。

食事がおいしいかどうか、ということが単なる栄養価の良否とは別に非常に重要なものであることは明らかです。しかし第二次大戦後の日本がそうであったように、いざとなれば何でも食べて生きていくような覚悟が特に日本では必要なのかも知れません。こんなことをいうと一見極端で過激な発言に思われるかもしれませんが、実際私たちが目のあたりにする震災地域などでは一時的にせよ何でも食べることが必要になりますし、何より今年新たに発表されたところによれば日本の食糧自給率は40%を下回っています。

これは空想ではありません。

例えば具体的に、日本料理であると(私たちが)認識している「てんぷらうどん」をみてみましょう。えび、衣(小麦粉)、うどん(小麦粉)、しょうゆ(大豆)・・・と見ていくと、これら原材料のほとんどが輸入品であることがわかります。せめて水くらいは全部国産と言いたいところですが、ペットボトルミネラルウォーターとして流通している輸入商品の量が昨今相当の量であることを思えば、水ですら自給できない時代に私たちは暮らしているといえなくはありません。

日本の食糧自給率の低さの原因は様々あるのでしょうが、それが低いという事実が容認されている背景を想像すれば、これは他国との貿易関係が常に円満であり、原料生産国は全体としてみれば軒並み豊作、海洋資源は無限であるという考え方が前提にあるということができるでしょう。

日本の食糧自給率が低下してきているという問題はすでに農業経済学、食糧安全保障などの分野では昔から考えられてきたことであって、今新たに顕在化してきたことではありません。しかしながら、伝統的に確立されているとみられる経済理論の中ではバイオエタノール、中国での激烈な食糧消費、過剰漁猟による海洋生物資源の枯渇、地球温暖化などの新しい要因は織り込まれていないと思われます。こういった現象は常に一部の変化が全体に影響を及ぼし、逆にそうして生じた全体的な変化が再び部分に影響を与えるといったことが連鎖的におこるいわゆる複雑系に類するものなので、非常に総合的な科学的対策が確たる方法論もないままにこれから検討されなければなりません。

一方日本では国民人口の大半が都市部に住み、耕作地は方々で激減するといった特殊な状況に歯止めがかかる気配は今のところみられません。

地震などでライフラインが途絶えるとたちまちに食糧事情が深刻になることは昨今の日本の例でも明らかなわけですが、これは全く他人事ではなく、島国に暮らす私たちは国民丸ごと非常に短い時間内に似たような状況に追い込まれる可能性があるわけです。

食糧自給率が40%を下回るといった問題が国会でもそれほど中心的な議論として取り上げられず、マスコミも選挙民もはるかに瑣末な政界スキャンダルに血道をあげるこういう現状は何とかしなければならないと思います。

話はどこまでも拡大するようですが、事実この課題は常にスケールの大きな対象です。

そして、このブログの主題である「食」という観点からいえばこれがまた非常に単純なこと、即ち私たちは食いだめも冬眠もかなわず、毎日2000キロカロリーを着実に食べ続けなければならない存在であるという事実がベースに横たわっています。

(4)原油などエネルギーの海外依存率が非常に高い

日本は食糧の依存率とともにエネルギーの海外依存率も非常に高い国ですが、このことは食糧以上に自明のこととして意識されてきたと思われます。エネルギーといえば、伝統的な水力、火力に原子力が加わり、最近では太陽光や風力を利用したクリーンな方法が実践されています。こういう問題は「食」に関して考えているこのブログでは本来別の課題であったはずですが、バイオエタノールがこれに加わってくるところで食とエネルギーのかかわりが急に深くなってきます。

エタノールの原料となる作物はサトウキビ(主としてブラジル)やトウモロコシ(主として米国)などの食糧原料となるものが主流ですので、これは実際の食糧と資源を争う存在です。キャサバやワラなど直接食糧とバッティングしない非食糧系原料を用いる方法も一部でとられていますが、これはマイナーです。

ここでは深入りすることができませんが、エネルギー問題としても食糧問題としても日本は非常に世界の趨勢に影響を受けやすい位置にあり、その傾向は日々に高まっているのだということを指摘しておきたいと思います。

第二節 日本の「食」に対する国民性がもっている特殊性・脆弱性

(1)「忙しく働く人」の増加による手軽な外食、中食の定着

これは一見日本が海外との力関係とは関係が薄い問題ではないかと思われるかもしれません。しかし私たちの社会が自らの調理の手間をかけなくてもおいしいものが食べられる、ということをあまりにも当然のこととして受け入れるあまり、元来の手間ひまをかけるスタイルにもどれず、そうしたライフスタイルそのものが結果的に海外との力関係においての脆弱性につながる可能性があると思われます。つまり私たちは「おいしいもの」を食べることに慣れ過ぎてしまったために他国民に比べ「食べられるがおいしくないもの」を受け入れる力が低下しているかもしれないということです。忙しく働く人ならなおさらのこと、昨今は時間的な余裕のある人でもカット野菜やレトルト食品、あるいは電子レンジでチンするだけのメニューに頻繁に依存することはごく普通のことです。そして市場原理としてはますます「おいしいもの」さらに「おいしくて安いもの」のみが存在を許される状況が際限なく進行していきます。

しかし海外に出かける折などに、そういう状況がかなり特殊なものであることは改めて感じます。

(2)外食・中食を支える食品添加物の多さ

この「おいしいもの」を手っ取り早く製造する手段の一つに食品添加物の使用が挙げられます。電子レンジだけでOKとなる製品の多くは大量の甘味料、旨味料、増粘材、乳化剤などによって製造されています。結果的にそれらは本当にかなりおいしいものとなり、下手な手間をかけて台所で調理するよりもいいな、と思われることが多くなっています。また働く女性の増加、働く人々の間での手軽さが徹底的に追及される結果、「いつでもどこでも」が求められますから、そのために大量の防腐剤、抗酸化剤などがやはり食品添加物として必要になります。従って、このような食品添加物は日本人の食生活のまさに前提となっているものですから、農作物や魚介類などの素材の入手とともにこれら添加物の調達や製造といった面でもよけいにいろいろなものが確保されなければならない状況にあります。

けれども、このような事情は多くの場合消費する側に意識されることはほとんどありません。

(3)「第四の価値観」としての食の安全・安心

私は現代日本の食生活が「手軽で安くて美味しい」という三大価値観を中心に据えて進んできたこと、そしてそれがもはや各家庭での調理の基本の省略をどこまでも可能にし、すでに不可逆な傾向として定着していることについて書きました。そしてそれを可能にしているものが食品添加物であること、従って、現代日本の食は食品添加物を前提に成り立っていることに改めて思い至りました。例の「てんぷらうどん」を考えてみたときにも、海老、メリケン粉、うどん粉、しょうゆの原料としての大豆、ひょっとしたら水までもが国産ではないかもしれない、ということのほかに、さらに目に見えないものとして防腐剤、漂白剤、甘味剤、乳化剤、造粘剤、うま味料、などにも非常に高い依存度がありそうだということに気付きます。この「手軽で安くて美味しい」という三大価値観に「安全・安心」という四つ目の価値観が大きく影響してきていることが昨今の特徴だと思います。

私は食品添加物が現代日本の食の前提になっていると言っていますが、一方でそれが絶対よくないこと、危険なもの、と決め付ける立場もどうしたものかと思っています。

以前このブログでフードファディズムについて触れました。フードファディズムというのは納豆がよいといえば店頭からそれが消えてなくなり、白インゲンがよいときけばそれを生で食べて中毒事故をおこす、動物性脂質がコレステロールを高めると説かれれば「にわか菜食主義者」になるといった食に関する非科学的で極端な風潮のことです。食品添加物についてこれをあてはめて考えると、食品添加物はすべて悪である、無添加が常にベストである、といったことになるでしょう。

しかし、そんなことを言っていては暮らしてゆけない世の中に私達は暮らしていることと同時に、そこまで徹底排除しなければならないほど危険なものでもないということです(因みに今回のテーマではありませんが、遺伝子組み換え作物についてもこれを毛嫌いする根拠にはあまり科学的なものがみえません)。

食品添加物の使用量や使用方法については基準値範囲内で用いられている合法的なものが通常私達の接するものであると言い切ってもよいわけですし、万一基準値を少々超えても、例えば基準値の一万倍とかでなく、数倍程度のものであれば、健康に危害を及ぼす量に至る可能性は非常に低いものです(ただしわずかであれ基準値以上の食品が出回っているかどうかをチェックできるシステムは必ず機能している必要があります。問題は主にそれを必要以上に誇大報道、告知する情報提供側やそれを真に受けてしまう受け手の傾向にあります)。改めて種々の食品添加物について調べてみれば、よくもまあこんなに巧妙・便利で使いやすく、安全なものをたくさん発明できたものだと、むしろ感心したい気持ちにさえなります。ただ、私はそういう食品添加物が法律で規制されたものであり消費者が特に逐一心配しなくてもよいほどに安全で安心ではあるけれども、それほどまでに私達の食生活が抽出物や合成物を前提としたもの(ということはそれがあった方がよいという範囲を超え、なければ成り立たない状況)となっていることは誰もが知っておいた方がよいことだろうと思います。買ってきたらすぐに腐ってしまう食品、色の悪い硬い肉、賞味期限のやたらに短い缶詰などなど、こういうものに耐えるタフネスがすでに私達からはかなり失われているということが言いたかったわけです。

そんなことはないと思われるかもしれませんが、世界を見回せば食品添加物フリーで暮らしているポピュレーションが相当数あることはすぐにわかります。ついでながら、前述の「タフネスが失われている」ということは私達自身のもつ「こんなまずいもの(硬いもの、色の悪いものetc.)食えないや」と感じてしまう「賞味感性レベルの高さ」ということとともに、雑菌類を過剰に遮断しすぎるためにおこると考えられる免疫のアンバランス(いわゆるアトピーや花粉症などのアレルギー疾患)という点でも脆弱化が進んでいることは由々しき問題です。砂漠地帯のオアシスの水をすくい取って飲むアフリカの人々やガンジス川で水浴びを行うインドの人たちに比べ、私達日本人が総合的免疫力においてひ弱であることは直感的にうなずけることです。

ちょっと話がそれました。次章では「食を揺るがす問題」として技術の行き過ぎについて考えてみたいと思います。

第三章:現代人の要求にテクノロジーが「やりすぎている」状況

第一節 (合法的模倣編)日本のハイテク人工模造食品や添加物を前提とした「安くて手軽、美味しい食品」を前提とした食生活に対する合法的な部分に対する改めての驚愕

味には甘味、辛味、苦味、酸味など万国共通のもののほか、日本に独特のものがあります。それは「うま味」です。代表的には昆布やかつお、シイタケなどでとられるだし汁に含まれるものです。

これらはなぜこんなにおいしいのか?これは主として天然物化学という学問分野の課題です。そしてついにこれらがL-グルタミン酸ソーダ、イノシン酸といった物質であることが解明され、次に、このおいしさを昆布やシイタケを原料にせずにいつでも好きなだけ作れないか?という技術開発に関心が向かいます。平野が少なく海岸と山岳地帯の多い日本人だったからこそそのような微妙な味を民族として認知することができたのだと思われますが、その美味に対する稀有な執念が西洋科学と結びついた結果、日本は世界に冠たる食品添加物の開発国となりました。実際アミノ酸や核酸などの成分を高純度に効率よく作り出す日本のバイオテクノロジーの技術はほれぼれするくらい素晴らしいものであり、私達がその技術の恩恵に浴さない日はないといってもよいほどです。(グルタミン酸の摂りすぎによる弊害だとか、そういうことはまた別の次元の問題として存在すると思いますが、行き過ぎに問題が伴うのはそれに限ったことではありません。)

また、アミノ酸と味覚といえば、うま味のみならず、L-アスパラギン酸とL-フェニルアラニン(正確にはそのメチルエステル)という2種のアミノ酸をペプチド結合という方式でつなげてやると砂糖でもないのに砂糖のような味がする、またその甘味はものすごく強い、こういう大した発明もあります。これにまつわる有名なエピソードではアミノ酸やペプチドの研究をしていた科学者が実験室の机の上にパンをおいていたところ、そのパンが異常に甘いことに気付いた、調べてみたらアミノ酸が2つつながった化合物が偶然机の上にこぼれていて、それがパンにくっついて発見された、というわけです。このエピソードは気が利いていて、通常実験室に飲食物を持って入るということは厳に慎むべきものとされているのに、その禁を破ってお行儀の悪いことをしていた研究者が「瓢箪から駒」を得た、ゆえに規則に忠実なおりこうさんばっかりでは技術は進化しない、というおまけつきです。いわゆるセレンデピティーというやつですね。それはともかく、この種の甘味料も徹底的に安全性が確認され、量産技術は日本製、そして今日カロリー摂取を気にするニーズにむけて非常に多くの製品にこれが使われているといった状況です。

先の昆布の味の本体をグルタミン酸であるとつきとめ、それを量産する場合と、アミノ酸を2個くっつけて甘味料を作るという場合を比較してみると、前者が天然物と同じものを人工的に模倣しているのに対し、後者は天然にはもともと存在しないものを人間が発明したという点において似て非なるものです。

しかしともに食品添加物としての必要性、安全性が認められ私達の生活に浸透しています。そして当然ながらこれらは合法的なものです。

ペットボトルに入ったレモンジュースを買ったとします。ラベルには果汁1%だとか、3%だとか書いてある。たったそれだけしか入っていないのか、というちょっとした不満と同時に、レモン果汁100%なんて酸っぱくて飲めやしないな、とも思います。それはともかく、「無果汁のフルーツジュース」があると聞いてもそれに驚く人はもはや少ないでしょう。色素や香料、甘味料などが人工的に製造できることが割合広く知られているからです。いってみれば、布や合成樹脂でつくられた精巧な造花をアートフラワーとして楽しむといったこととも似ています。

しかし一方、コーヒーに入れているミルクだと思っていたものが、実はまったく乳と関係のない原料からできていることを知っている人は必ずしも多くはありません。実際たくさん流通している「フレッシュミルクにみえるもの」は植物油脂を乳化剤や増粘剤で処理することによって牛乳とそっくりな見かけ、風味に仕上げられたものです。しかし、それは別にごまかしというわけではない。むしろ積極的に動物性脂肪を取りすぎないための配慮としてのメリットを見込んで供給され、また消費者も(詳しいことは知らなくても)まあそういう「ミルク」なんだろう、ということをある程度納得して使用しています。この種のものとしては他に、カニカマボコ、マツタケ風味の吸い物など様々ありますが、私たちは普段その素性を大なり小なり了解しながら使っています。だまされたという感覚とは違いますのでここに特に問題はない、技術の結構な進歩ともいえるのかも知れません。

ところで、先般知って驚いたのですが、豚骨スープというものが、全く豚骨と関係のない食品添加物ばかりを用いてそっくりに作れるのだそうです。そして、それは時に、実際の下手な豚骨スープよりもおいしいと感じられるとか。また、ある肉の赤身に別の肉の脂身を注入したりプレスしたりして作った「霜降り肉」や「サーロインステーキ」はプロでも見分けることが難しいといいます。よくよく考えてみれば、そんな安い値段で霜降り肉が食べられるわけがないのですが、手ごろな値段でそこそこおいしいものであればと、さほどの詮索なく受け入れられているものと思われます。これらは合法的な範囲の一つの極限を示しているのではないかと思います。つまり、消費者は合法に製造しているという生産供給者の行為を信用するしかなく、かつそのモノの実態については実際的にはほとんど知らされる機会がない、という点においてこれはいささかショッキングなことに感じられます。

第二節 日本の法律では違法だが海外では認められている添加物等が用いられている場合

前節では全く合法的な、しかし消費者が十分状況を知らないような食品加工の話を書きました。食品添加物による一種の模倣食品であり、その実際のところを消費者がどれだけ知っているかということを中心に述べました。今回はそれとは少し違った意味で消費者に意識されにくい問題として、「実害がない可能性が高いが違法は違法」として処理されるケースについて考えてみたいと思います。

食品添加物の安全性については客観的な基準が世界にひとつだけ存在するというのではなく、国ごとに設けられた法律に適合するかどうかが決め手となります。「国ごと」ということは例えば米国で使用許可されていても日本で許可されていないとかいった場合がこれにあたります。米国で安全性が確認されているのであれば日本でも使ってよさそうなものですが、実際にはやはり法的に認められたものしか使えない、というのが原則です。同じ人間であっても人種が違えば身体の性質も異なるかもしれない、という可能性を考えることは科学的です。故に、日本の手によって安全と確認されたものだけを安心できる原料として輸入や使用を許すということになるのですが、場合によってはそのような安全性を確認していないだけ、ということもあり得ます。そのような時、日本で使用することの必要度の高さを判断して安全性の評価が行われますが、通常非常に時間がかかってしまいます。これは使用者の側、市場の側からすればもう少しフレキシブルにならないかと思いますが、法律がある以上それを遵守するという正論は強力なものですから、時々非常に大規模なリコールが行われることがあります。

新聞の社会面の下の方に謝罪広告として、

「このたび弊社の製品に○○という食品添加物が含まれていることが判明した。これは日本の法律では使用の認められていないものであるため、その製品をすべて回収する。なお、この食品添加物○○は米国では使用が認められており、消費者が万一摂取された場合にも健康への影響はない。」

という趣旨のことが書かれているのをご覧になった方は多いことと思います。これは「疑わしきは用いず」ということではなく、「他国であるにせよ科学的に安全性が評価されているが、日本の法律が認めていないので用いない」ということであり、専門家でなければなかなか納得するのが難しいような内容だと思われます。一般消費者としては、健康への影響はないとわかっているのならわざわざ回収しなくてもいいじゃないかという思いと、日本の法律が認めていないのならばやっぱり危ないのではないかという思いが錯綜し、釈然としない感じが残ります。(こんなことは実際めったに見かけませんが、逆にリコール告知広告として「これは万一摂取した場合重篤な症状が現れることがある。故に回収する。」と明言されていれば物騒この上もない。しかし論理的には納得が行きます。)いずれにせよ企業側の品質管理責任として、これはいくら費用がかかっても回収というアクションを起こさざるを得ない問題です。

いろいろと込み入ったことを書きましたが、要するに国や企業(供給者)は一般消費者が何も知らなくても安心な食生活を保証するんだ、という考えを底辺に置いているということは確かなことです。

しかし私が、完全人造豚骨スープや人工霜降り肉の話などを持ち出したのは、食品加工の技術もとことんまで進化してきている現代日本社会にあっては消費者はもっと豊富な情報を得て、納得の行く判断機会を与えられるべきではないかということを思うからです。また従来の物差しでは安全性や有効性が測れないような新しい食品や食品添加物が出現していることも同時に指摘しておかなくてはなりません。

私個人的な感想をいえば、果汁0パーセントであることを理由にある清涼飲料水を買わなくなる人より、豚骨スープが完全人造物であることを知ってそれを買わなくなる人の方が多いのではないかと思います。

また、米国で通常用いられているが日本ではまだ使用の認められていない添加物の入っている食品を買うかどうか(買える自由があるとしての話)と言われれば各人の判断によっていろいろ挙動は分かれるだろうと予想します。どんなに専門的、法律的な首尾が整ったとしても、最終的に消費者が実際のところを知って「だまされた!」と感じるようではやはり問題がある。供給側はそういう消費者の感性を見くびらないこと、行政側は消費者の選択力を信用すること、十分な情報を与えた後の判断は国民の判断力に委ねるのがむしろ良いのだと考えること、こういう考え方が重要なのではないでしょうか。こういった専門家の出す結論と一般市民の直感が食い違う問題は別に食品分野に限ったことでもありません。裁判の判決、政治家のマニフェスト、金融商品の情報提供のあり方、これらすべてに通底することでもあります。

第四章:現代人の欲求の足もとを見た悪徳テクノロジー、詐欺の横行

(違法的模倣編)「安くて手軽、美味しい食品」を可能にしている国内外での不正な食糧製造の実態。それに対する驚愕と不気味さ。実際のリスク。

これまで、「ミルクを1滴も使わないミルク」、「豚骨を全く使わない豚骨スープ」などの話を書きました。これらは、しかし合法的な例であり、そこに特に法律に触れるような問題はありません。ただ、消費者がそれをどの程度知っているかに疑問が残るのではないかということ、また消費者としても安易に安いものに飛びつかず、表示を確認するとか、ちょっと添加物のことに関心を持ったほうがよさそうだとか、そこのところが言いたかったわけです。

この章ではそれらと似て非なるケースについて考えてみます。即ち、違法製造行為がこっそり行われており、いくら消費者が通常の注意を払っても知りようがないと思われる場合です。

今年は実に多くの食品安全に関する報道がなされましたが、私がびっくりして印象に残っているものとして、トウモロコシの芯を粉末にしたものに紅色の染料を混ぜて「偽トウガラシ粉」として販売している業者があるという話、あるいは理髪店の毛屑を原料にしてつくられた醤油が作られているといったことがあります。これらは日本の話ではありませんが、豚の心臓に他の鶏の屑肉などを混ぜてミンチとし、牛ミンチとして称して販売したミートホープ社、あるいはつい最近摘発された「偽比内地鶏」事件(仕入れ値が1羽約2000円の比内地鶏に代わり、20〜30円の「廃鶏」と呼ばれる、卵を産まなくなった親鳥を使った燻製製品を長年にわたって製造していたとされる)では私たちの身近にも気味の悪いものがけっこう出回っているらしいことを知らされたという点でショッキングでした。もしトウモロコシ原料のトウガラシ粉(のようなもの)、牛肉の入っていない牛ミンチ(のようなもの)をはっきりそれと表示して販売するならばこれまでに見た植物性クリーム、人造豚骨スープと同じこと、特に咎められるようなものではないのかもしれません。しかし、実際には偽物を本物と偽り、かつ本物と同じ値段でそれを販売するならば、これは明らかな法律違反です(報道では不正競争防止法違反容疑〈ミートホープ〉、食品表示法および日本農林規格〈JAS〉法違反容疑〈比内鶏〉)。ミートホープ社の場合、その他に雨水を解凍に使用していたとか、色の悪い肉に血液を混合して改変したなどといわれていますが、要するにこれらはすべて「コストダウン行為の行き過ぎ」といえます。

と同時にこれらは一種のテクノロジー(製造技術)とも関連しており、ミートホープ社の場合2006年に「挽肉の赤身と脂肪の混ざり具合を均一にする製造機」の開発を称えられて文部科学大臣表彰創意工夫功労賞をもらったりしています。だから技術力そのものはむしろ高いとさえいえます。私は違法行為を容認することにはもちろん断固反対ですが、「安い原料をおいしく加工して利用する技術」が進歩することはむしろよいことだと思います。しかし今の場合あきれたことに、安いものを安く売っていたのでは儲からない、屑肉をブランド肉として高値で販売するからこそ儲かるのだ、というわけです。競争のルールそのものが違うのですからまじめにやっているところが太刀打ちできるわけがありません。故にこそ不正競争防止法への抵触だということになるのでしょう。詳しくは今後の捜査と司法判断に委ねなければなりませんが、今回の問題は不正競争防止法以外に詐欺罪などにも関連してくることと思われます。

その他今年は「不二家」事件にはじまり、「白い恋人」、「赤福」、「吉兆」などで賞味期限の遵守違反というケースも数多く摘発されました。ここで起こっていることはそれほど複雑なことでもなく、報道を受け止める側はまたか、とばかり少々「食傷気味」ですらあります。ただ「赤福」は私の出身である関西の小学校の修学旅行の定番お土産としてほぼ全員がこれを買い、「不二家」は誕生日やクリスマスに何度もお世話になった思い出、「白い恋人」も北海道の駅の売店や空港で出発前にあわただしく買った記憶などが鮮明で、むしろ驚きはそこにあります。資本力も十分であるはずの老舗の大企業にしてこれであれば、世の中に隠れた不正はいかほどのものか?

品質管理は利潤の追求の前にはかくも脆弱なものであるかと改めていやな気持ちを覚えます。

第五章:今後人類が切実に取り組むべき難題

第一節 「安くて便利」にかわる選択

「資本主義の競争原理」が食の市場に働く場合も他の分野と全く同じこと、つまりより便利なもの、より美味しいものをより安く、という方向が強められていくことになります。これまで考えてきた食品開発に関するさまざまな工夫あるいは行きすぎたカモフラージュのテクノロジーも、もとはといえば誰かがそういう消費者受けするものを開発すると現行のものがもはや売れなくなる。さらに新しいものが開発される、ということが連綿と続いてきた結果に違いありません。もちろんそういった競争は食の安全に関する法律を遵守するという共通ルールの中で行われることですが、中にはその法の虚をついて不正が横行するということについても前回考えてみました。永遠不変とみなされてきたような資本主義の原理として考えられていたことが、今日一部の人間社会(もちろん日本を含む)では必ずしも成り立たないような事例がそこここで出てきています。

たとえば私達が毎日利用するウェブサイトや様々なソフトウエア、ウィキペディアのようないわゆるWeb 2.0と呼ばれるようなユーザー参加型の修正進化型データベースなどはその典型例です。そこには他者よりも有利になるという目的原理だけでは説明できない人間のもつ公共性や性善説的な考え方が底流にあって、その試行錯誤は現在ものすごい速度で行われています。

こういう例を持ち出してみたくなったのは、「食」においても私達は単なる競争原理ではない別の価値観を取り入れるべきではないかと思ったからです。言い換えればこれまでとは逆のこと、便利でない調理に価値を見出すこと、時には安くないかもしれない食材を受け入れる購買感覚、見栄えの必ずしもよくない食品材料を選択する、などということが当たり前になるような世の中になる、そういう可能性が考えられるということです。「便利でない調理」というのは、例えばカット野菜ではなく、土のついたような野菜を調理しようとすること、温めるだけで済むカップ食品や弁当を「買う」ことから自分で作った弁当を食べるといったようなことです。もちろん、簡便に済ませることが必要なときにこれら出来合いの製品は極めて重宝ですし、それを利用できる状況がなくなることはないと思います。しかし、食を栄養獲得のための手段としてのみ見るのではなく、作る側と食べる側のコミュニケーションだという原点の事実をもっと重んじるような風潮が今後意識的に前面に出てきてしかるべきでしょう。これは世上「食育」としてさかんに言われていることですね。

私は今ならまだ十分間に合う気がしていますが、あと1−2世代も進んでしまえば、そもそも食材を一から選んで台所で調理するという基本に戻るのが非常に難しいような状況になってしまうのではないかとかなり心配です。ここではやはり手軽で便利なものがそうでないものより良く売れるはずだという資本主義の原理が逆転することになります。

「安さ」については、これを追求しすぎるところから品質のずさん管理やニセモノ食品(例のとうもろこしの芯を着色したトウガラシ〔のようなもの〕、人毛を原料にした醤油〔のようなもの〕という気味の悪いケースです)が横行する傾向が出てきます。これについてはあまりに安すぎるものにかえって価値を認めないという考えで対抗することになると思われますが、これもまた伝統的な資本主義原理には合いません。

第二節 規格外食品の利用

食品の原料となるもの、たとえば野菜にせよ魚にせよ、形が悪かったり、傷がついていたり、あるいは定型サイズより大きすぎたり小さすぎたりするものは商品価値がないという理由で店頭には並びません。これも市場の原理で、消費者がそういうものは買わない、売れ残るということから当然のこととして規格外の食物原料は廃棄されてしまいます。これが工業製品であれば一定の規格に合致しないものを除外するということは理解しやすいのですが、食物である野菜や果物、食肉や魚などはすべて生物であるが故にどれも全く同じ品質、同じ形というわけには本来行かないはずのものです。しかし、人間の創意工夫によって今日非常に粒の揃った作物を得ることが出来るようになっています。

ずっと昔、家庭菜園というほどのものではありませんが、自宅の小さな庭先になすやきゅうりを育ててみたことがありました。全く何も出来ないで枯れてしまうようなことがしょっちゅうで、たまにそれらしいものが実を結んだ時にはちょっとうれしくなったものでした。けれども市場で売っているようなものとは色や形、大きさなど程遠く、あらためて本職の人たちの作る作物の立派さに子供心に驚いたことを思い出します。しかし実際には農場で作られるものの中にもさまざまな不出来なものはあり、そういうものは販売の対象にならないということで取り除かれているということも後に知りました。

食糧資源を無駄にしない作法をわたしたち日本人も本気で求めてゆくべきではないかという気持ちでこの話題についてこれまで考えてきましたが、そのような「規格外商品」を利用するような動きが一部では行われているといったことをテレビで何度か見かけました。また、この秋には、これまで廃棄していた魚のヒレや頭部などもできるだけ捨てずに利用し、かまぼこなどの製品に加工する技術が開発されたという報道にも接しました。

こういったことを聞けば少しは安心もしますが、一方でいよいよそのようなことが真剣に検討されるような時代に本当に入ってきたのだということにただならぬリアリティを感じてもいます。

第三節 大量の食品が今日も廃棄されている

賞味期限切れ製品や食べ残しなど、食品関連の産業から発生する食品廃棄物は年間1100万トン(2006年度「食料・農業・農村白書」)に及ぶのだそうです。食料自給率が40%を下回ってしまったわが国の食糧事情が孕んでいる大きな矛盾の一つといえるでしょう。

今年(2007年)7月30日付けのAERA誌にとても興味深い事例が紹介されていました。チャールズ・E・マクジルトン氏が理事長を務めるNPO法人「セカンドハーベストジャパン(2HJ)」では賞味期限が残っているにもかかわらず、商品の回転の都合でスーパーやコンビニの棚から撤去されるような食品を寄付してもらい、需要のあるところに無償で届ける、という活動をしているのだそうです。また、コンテナ船で輸送中にダンボール箱の一部がへこんだり、端がつぶれてしまったりすることがかなり起こります。しかし梱包の外側の話なので、中の品物には影響がない。そういう場合でも中身の商品を販売することは通常難しいわけですが、2HJではこのようなケースにも無駄にならないように需要のある先に斡旋を行うということです。

日本の食料品のうち、残されたり廃棄されたりするものは全体の約3割にも上るといいます。私もふだん外国の人たちと品質の話になると、このあたりに微妙な感覚の差といったものを感じることがしばしばあります。先に触れたとおり、日本では外装のドラム缶やダンボールが少しへこんだり傷がついたり汚れたりしている場合、それを受け入れないケースが普通だと思われます。しかし、外国では内容物を保護する目的をもったものが想定される範囲の衝撃を受けて少々の損傷を受けたとしても、中身に問題がないのならばそれでよいではないか、という立場に立つことがしばしばあります。

このような違いは乗用車などの扱いを見てもわかります。自動車にはバンパーという部分が前後に取り付けられていますが、これはつまりbumper(緩衝器)なわけで、この部分が文字通り衝撃を和らげる設計になっています。それで外国では込み合った駐車場などではここはぶつけてもよいものとして気にしない人も多いようです。しかし我々日本人にはバンパーのちょっとした傷も放ってはおけません。このような神経の細やかさを過度というべきかどうか、これはまさに国民性の問題なので、一朝一夕には行かないのかもしれませんが、食糧問題として積み重なれば結局かなりもったいないことになってしまうと思います。

今年、食品業界で頻繁に取り沙汰された不祥事問題のキーワードの一つは「賞味期限切れ食品」に関するものでした。「赤福」にせよ「白い恋人」にせよ、賞味期限を決定したのはその企業自身であるはずですが、自分自身で決めたその期限を自らが違反してしまうということに対しては、非常に理不尽な感じがします。またそのようにしてごまかした賞味期限によって不当な利益を得るなどということについては断固として異を唱えたいと思います。したがってこの観点からは、賞味期限を経過したものは「きっぱりと処分する」ということがただひとつの正しいアクションであると表明することになります。このことに例外はないと、目下のところそう思います。

しかしながら、そのようなことが相当長い期間常習的に行われていながら、それらの製品を利用した消費者からはさしたるクレームもなく存続してきたという事実が一方に存在します。つまり、実質的に問題がないのならば・・・。

ここにきて、「ごまかしてやれ」ではなく「もったいない」という気持ちが捨てきれないものとして残ってくるのですが、有限な資源としての食糧という観点からすれば、この問題はまだ根本的に解決していない、というより、本当は極めて解決の難しい、これからの新しい課題なのではないでしょうか。

第四節 議論することの難しさ

食を揺るがす問題についてこのブログで考えてきたこの何ヶ月かの間に、NHKテレビなどで食糧問題の特番が組まれ、つい先ごろも米作農家や評論家を交えた公開討論番組が放映されました。そこでは、貿易障壁を設けてでも国家が農家を守り、食糧自給体制を確立しなければならないとする保護派と、輸入を促進して農作物をどんどん日本に流入させるべきである、それを買うかどうかの判断は国民に委ねるべきであるという規制緩和派に分かれて3時間ほどの討論が白熱しました。

残念ながら、というか当然ながらそういう番組の中でこれといった結論が出たわけではありませんが、私が最終的に感じたことはこのような大問題に対してはそもそもそれを議論する枠組みを適切に設定することそのものが不可能と思えるくらい難しいことのようだ、ということでした。農家の人々の中にもいろんな意見があるのですが、自分たちが農業をやめてしまったら国が滅ぶと主張する人、自分はもう農業協同組合に米を買ってもらうなんていうことは期待せずに台湾だかどこかの超高級料亭に向けて通常の数倍の値段で販売することに活路を見出すのだという人など、その考え方のスタンスは本当に様々でした。

一方、日本の農家が世界に冠たる日本産コシヒカリを作れるのなら米国産や中国産の「安いコシヒカリ」など脅威に感じなくてもよいではないか、という見解に続いて、番組では論より証拠というわけで、いろんな国の「コシヒカリ」を利き酒ならぬ「利き米」風に言い当てられるかどうか実験するコーナーが設けられたりもしました。しかしよほどの専門家にも国産と外国産は見分けのつかないようでした。また貿易全体のことを考えれば、日本の工業製品を買ってくれる外国から、逆に食料品を輸入するということは貿易の形として自然なことなんだ、日本のものは売りつけるが輸入はごめんだなんていうことは通用しない、ということを説く有識者もありました。

どれももっともなことのように聞こえ、故にこそ番組でも結論など出なかったのですが、私はこういう大問題を皆で討論することも大事だけれども、「議論の仕切り方」のようなことがもっと肝心な気がして、結局は煮え切らない思いを残しながら3時間の番組を見終わりました。

もっとも政治の問題、年金の問題、国防の問題など、どれ一つとっても簡単なものはない、そのうちの一つが食糧問題というわけですから、これも一朝一夕には行かないに違いありません。

何だかやり場のないような結尾部となりましたが、私はこれまで長々と考えてきた地球環境や政治、食育や国民人口構成の課題、こういうことをすべて包括的に巻き込んだ形になっている食糧の問題については、何ごともそう簡単に解決できると思わないほうがよいのではないか、そういう極めて暫定的で歯切れの良くない言葉を最後に、3ヶ月ほど続けてきたこの話題を一区切りとしたいと思います。

しかしそれにしても何という身近な、何という大問題だったろうと、いまさらながら大きな驚きを感じています。

(2007年8月〜11月)

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